橋下氏の言論テクニックの危うい点
私は大阪の橋下市長には大いに期待する一人です。しかし、彼の議論の手法にはいささか疑問を感じる部分もあります。
彼の議論が何故強く、相手が何故弱くあるいは稚拙に見えるのかを考えた場合、明確に見えてくるところがあります。
それは、反対者には常に対案が求められ、反対者はその対案を持っていないという図式だからです。「じゃあどうすればよいと思いますか?」「ではあなたがやってみてください」これが彼の一撃必殺の殺し文句です。そしてこれまでの反対者にはその答えはなく、「それはわかりません」となるからどうしても負けた感が出てしまうのです。
つまり、橋下氏を論破するための前提として、彼より優れると思われる対案を出すこと ということが求められるのです。
それは、現状が良くない=改革しなければならない ということを更なる前提とした議論となるわけですが、このような手法の危ぶむべき点を感じます。
「対案もなしに反対するな」という考えがさも当たり前のような風潮があるかもしれませんが、これは「対案が出せないのであれば素直に従いなさい」ということに繋がります。
本来、議論する前提では、必ずしも対案は必要とはしません。重箱の隅をつつくような反論の為の反論は論外として、ひとつの案に対する的を得た批判はあってしかるべきものです。たまに学者が反論しても「現場を知らない人の言葉だ。現実はそんなに甘くはない。」と一蹴されたら物も言えません。
これは実は橋下氏だけではなく、企業組織の中でも時折起こることです。
例えば、社長がひとつの案を出します。(実は案というより社長の中では決定事項ということが多いのですが・・・)
これに対して反対する社員が出た場合、その反対する理由が的を得ていればいるほど、「じゃあ文句ばっかり言ってないで対案を出せ!」と、こうなり、社員は黙りそして社長の案が全会一致で可決されるということ、ありませんか?
そして結果失敗に終わっても、「全員で賛成して決めたことじゃないか!」と開き直る社長、いませんか?
「対案を出せなければ反対するな」というのは反対者、反論を封じ込めてしまい、結果としてその案の是非を客観的に検討する機会を損失させてしまっているのです。
例えば、私のところに起業に関する相談があったとして、私がその内容を批判したとしましょう。「じゃあ対案を出して下さいよ。出せないならケチ付けないでください!」と言われるようなものです。「じゃあ相談しないでください。」で終わりです。(流石にそんな人はいませんけど)その案がそれ以上に揉まれることはありません。
反対者は「反論の為の反論」というようなレベルの低い反論をしてはダメですが、案を出す側も同時に、「案を通すこと」を目的とした議論をしてはいけません。
〇〇〇のため、という共通の大義の下、批判、反論、指摘に真摯に耳を傾ける度量がなければ、結局よいものは作れないのではないでしょうか。
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